千葉ロッテマリーンズの佐々木朗希投手は陸前高田出身です。彼は東日本大震災で父親を亡くしていました。
この記事では
・佐々木朗希の父の死因
・佐々木朗希の父はどんな人
について調査していきます。
佐々木朗希のプロフィール
引用元:NHK
名 前: 佐々木 朗希(ささき ろうき)
生年月日 : 2001年11月3日(23歳)
出 身 地: 岩手県陸前高田市
身長・体重: 192cm・92kg
利き腕 : 右投右打
ポジション: 投手
所属球団 : 千葉ロッテマリーンズ
プロ入り : 2019年
学 歴: 大船渡高等学校
佐々木朗希の父の死因
東日本大震災で起きた津波
佐々木朗希選手の父親・功太さんは、2011年3月11日に発生した東日本大震災で亡くなりました。
佐々木家は当時陸前高田市に住んでいて、震災の影響で自宅が流され、津波に飲み込まれたということです。
功太さんの死因はおそらく溺死だと思われます。
家族がバラバラに
地震発生当時、佐々木朗希選手は9歳で小学3年生でした。
佐々木朗希選手は地震が起きた時、小学校にいて級友たちと高台に避難しました。
母親の陽子さんは仕事で隣町の大船渡にいました。
自宅に戻ろうとしますが、浸水で立ち往生を余儀なくされすぐには帰れませんでした。
翌朝5時にやっと車で陸前高田へ出発し、普段は30分の道のりに3時間近くかかってやっと3兄弟に再会しました。
父親が見つかったのは5日後
家にいた父親の功太さんと祖父母は行方不明となっていました。
震災から5日後の3月16日、母親の洋子さんと朗希さんら兄弟は
身を寄せていた母親の親族の家で父親が発見されたと連絡を受けました。
3月16日、電話が鳴った。「見つかりました」。電話口の言葉を知った朗希少年が「見つかった!?」と目を見開いたことを陽子さんは今でも覚えている。大人ならすぐに悟れる「見つかりました」の真意。当時9歳の朗希には、7文字の深さを察することはまだ難しかった。
日刊スポーツ
「見つかりました」という言葉が意味することが9歳の朗希選手には伝わらなかったのですね。
きっと、「お父さんが生きてた」と喜んだのではないでしょうか。
佐々木朗希の父のプロフィール
引用元:情熱大陸
名 前: 佐々木 功太(ささき こうた)
出生年 : 1974年(享年37歳)
職 業: 葬儀店勤務
子煩悩な父
引用元:X
佐々木朗希の父功太さんは、家族とともに陸前高田市で暮らしていました。
功太さんは野球経験はありませんでしたが、バスケットボール経験があり、スノーボードが趣味でした。
運動神経が良かったんですね。
功太さんは非常に子煩悩で、息子たちと一緒にキャッチボールをするなど家族との時間を大切にしていました。
そして、朗希さんたち兄弟が所属する地元の少年野球チームの高田野球スポーツ少年団の監督とも親しく
ノックを打ったり、キャッチャー役をやるなど練習を手伝っていたそうです。
地元で人望が厚かった
功太さんは地域社会でも知られた存在で、夏祭りなどでは盛り上げ役として活躍していました。
そして、功太さんの人柄は多くの人々に愛されており、「有言実行の人」として評価されていました。
佐々木朗希選手はお父さんのことを
誰とでもすごく仲良くしていて。皆に愛されていたのかなあと思います。
と話しています。
佐々木朗希選手も父親から受け継いだ思いやりやリーダーシップを持っており、
プロ野球選手として成長する中で、その影響を感じていると語っています。
東日本大震災を経験したことと父親を亡くしたことは佐々木朗希選手に大きな影響を与えました。
佐々木朗希選手にはお父さんの分も活躍してもらいたいです。
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